2005年01月30日
内藤様 女性 事務機器メーカー
インフォレントは、いわゆる不動産屋と顧客の間のポジション、というのが素晴らしい!豊富な情報の中から、コレ!って部屋を見つけてくれました。中立だから、特定の物件を押し付けられるようなこともなく、私の目線・最重視で。ある物件では、明らかに部屋全体、いや建物全体が傾いていました。物件を持っている不動産屋さんでは、ほとんどの場合、ここで必死の弁明が・・・! でも、インフォレントは、リップを床に置いてどれくらい転がるのか、傾きを調べる実験に一緒に付き合ってくれました。「うん、今加速したよね〜」なんて言いながら(笑)あのマンションは忘れられません。そして何より・・・スタッフさんがメチャメチャ熱い!面白い(笑)!!同じく部屋探しでお世話になった妹と大爆笑。今やアニキ、って感じです♪
 
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2005年01月27日
ウンチの話し
自分の親父は昭和9年生まれだから現在70歳。
三陸の猟師の家に生まれ、9人兄弟の4番目。人懐っこい性格でいい味振りまいている親父である。
東京地裁勤務時代に東京弁護士会に勤めていた母と出会い結婚。三人の子供をもうけた。その一人が自分。その後、独立して埼玉で小さな不動産会社をはじめ、今は一線からは引退している。15年前に自分の母親が亡くなり、11年前に後妻さん(サキさん)と再婚し、7年前に大腸癌の手術をして、その時から人工肛門になってしまった。おかげで、臭い屁はなくなった。大きないびきはあいかわらずだけど。
そんな親父が先日、自分の留守中に仕事の様子を見に来た。ちょうど自分が帰って来た時、トイレの前で立ちすくんでいる。

自分「どうしたの?」

父親「(人工肛門の)袋の(皮膚と袋をつなぐ)ベースが割れて、便が漏れてしまった。臭いだろ?。ベース売っているところないか。」

自分「大丈夫、臭くないよ。じゃぁ、自分が良く使う胃腸クリニックに連れて行ってあげるよ。」

新宿から代々木までタクシーで行ったけどベースは置いてないという。
親父は動揺して後妻さんや妹に電話を掛けている。

父親「ベースを持ってきてくれ。迎えにこれないか。」

洋服や下着が便でべちょべちょになっていたんで、目白の自分の部屋に連れて行って浴室で流すことにした。

服を脱がせ、自宅のお風呂で手で洗い流してあげた。

父親「おまえ、嫌じゃないのか」

自分「ぜんぜん。気にならない。大丈夫。」

親父の便を触ることにも、臭いもまったく抵抗感は無かった。丁寧に流して綺麗にして上げた。服も下着も洗濯して乾燥機にかけてあげた。ベースの応急修理のために防水のシールとテープを近所の調剤薬局に買ってきた。防水シールのおかげでベースは以前以上にうまく修理ができた。

父親「これはいいな。(張り付いていることが)ぜんぜんわからない。こんなことになっちゃって悪いな。これでも、俺の心は傷ついているんだぞ。」

自分「わかってるよ。でも月末から中国にいくんだろ。そういう事態はいつでも起こるわけで、中国じゃなくてここで起こって自分で対処できることがわかったんだから良かったじゃん。割れることを恐れていたら、自宅から離れる度に不安でどこにもいけないよ。この人工肛門ともずっと付き合って行かなきゃいけないんだから。付き合い方覚えなくちゃ。」

父親「そうだな。これ(防水シート)中国に行く時、もって行くわ。これいくらだ?」

自分「490円だよ」

父親「高いなーw」

その後は、晩酌が始まり、親父ご機嫌状態。二人で一升瓶をあっという間に開けてしまった。

実は先日のスキー旅行の際にも同じようなことがあった。えいじ(当時5歳・自分の子供)がパジャマの中でウンチを漏らしてしまったのだ。その時、母親は大浴場に行っていなかった。

えいじ「パパ、うんち出る。・・・もう、出ちゃった。」

自分「えっ、わかった。大丈夫だよ。そのまま、トイレに行こう。」

えいじ「みんな(ママ、こうちゃん、こうちゃんママ)に言わないで。」

自分「言わないよ。大丈夫。」

トイレでパジャマを下ろすと大きな柔らかいウンチがあった。湯気が立っている。
自分はおもむろにウンチを手で掴み、便器を使ってパンツを洗い流した。

無事?母親にも内緒でウンチ処理ができ、このことは自分とえいじの間だけの秘密になった。照れくさそうにはにかむえいじはなんだか可愛かった。

親父「寝たきりになった時のことを考えると少し安心したよ。」そう親父は言いながら、実家に帰っていった。

初めてオムツを取り替えたときは、手につくことさえ嫌だったのに。今はまったく抵抗感がない。
どうやら今年は新年早々からウンチに縁があるらしいこと。ひょっとしたら、自分は介護にも向いているのかも?、という発見をした。

 
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2005年01月23日
自己満が愛を覚まし幸せを呼ぶ
マイ・ルームを見てから「愛する相手がいたから幸せだった」というセルフが、何度も頭をこだましている。
愛することを愛されたい欲求より自然に優先できるようになるにはどうしたらいいか、を考えることがここ数日の自分のテーマになっている。
愛されるばかりでは幸せにはならない、愛することができて初めて幸せになれる・・・。
趣味でも恋人でも仕事でも自然にそうできている人は幸せな人なんだと気がつかせてくれた。
感覚的にわかっている人もいるけど、なにかにつけて考える機会がないとわからない自分は本当にある意味、不器用だ。

愛されたい欲求は、自分を素直に認めることができればわかる。
でも、見返りを期待しないで打算無しに愛せるか、それはなかなか自分にとっては難しい。
どっかで期待している自分がいる。
しゃべっている時も、まるで鏡に向かって自分に言い聞かせているような気がする。
決して神になりたいわけではない、いや神だって本当になにも期待しなかったのかは疑わしい。
救うためとはいえ、少なくとも教えが広がることを期待してたわけだから。

自分には離婚経験がある。その時のことを考えるとその遠因はずっと前からあったような気がする。
家を買えば、子供が生まれれば、育てていけば、会社を独立すれば、、、息が合ってくるそう信じていた。
しかし実際にはそうはならなかった。
自分の一方的な見方だけれども、今も自分なりに原因を考えているのかもしれない。
今考えられる遠因として、お互いが愛されたい欲求を強く持ちすぎていたこと、気を使うのにお互いが疲れてきたこと、があるのではないかと思っている。

どちらかの自己犠牲の上に成り立つ人間関係は、結局は長続きしない。どちらかが気を使っている状況でなく、楽しい時に、自分だけじゃなく、自分の相手も一緒に楽しんでいてほしい、辛いときは心を分かち合ってあげたいと思う。
気を使うこと自体は悪いことではないのだけれども、なんか重い。
片一方が楽しんでいるのにもう片方は我慢してた、そんな状況は、自分はもうこりごりで、一人だけ上機嫌なアヒルにはなりたくない。
相手が喜んでくれることに自分自身の喜びを見出すことができ、自分の喜びのために相手が喜ばす、辛い人がいれば気持ちをわかってあげて相手が少しでも元気になることが自分の喜び、そう考えた方が自分らしいし自分の好みなような気がする。
とどのつまり、愛することは自分の気持ちを満たすためであることを自覚すればいい。

自己満であることを自覚→自然に愛することができる→幸せな人

こんな単純な論理でいいのだろうかという気もするけど、うーんまっいいか。
今更このどうしようもない強すぎる自己愛を否定できないし、すぐ性格を変えられるほど器用でもない、自分の気持ちに矛盾なく人を愛せればいいじゃないだろうか。
つまりは、自分の幸せのために。おぃおぃ。究極のナルシストか。嫌われそ。

 
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