2005年01月23日
自己満が愛を覚まし幸せを呼ぶ
マイ・ルームを見てから「愛する相手がいたから幸せだった」というセルフが、何度も頭をこだましている。
愛することを愛されたい欲求より自然に優先できるようになるにはどうしたらいいか、を考えることがここ数日の自分のテーマになっている。
愛されるばかりでは幸せにはならない、愛することができて初めて幸せになれる・・・。
趣味でも恋人でも仕事でも自然にそうできている人は幸せな人なんだと気がつかせてくれた。
感覚的にわかっている人もいるけど、なにかにつけて考える機会がないとわからない自分は本当にある意味、不器用だ。

愛されたい欲求は、自分を素直に認めることができればわかる。
でも、見返りを期待しないで打算無しに愛せるか、それはなかなか自分にとっては難しい。
どっかで期待している自分がいる。
しゃべっている時も、まるで鏡に向かって自分に言い聞かせているような気がする。
決して神になりたいわけではない、いや神だって本当になにも期待しなかったのかは疑わしい。
救うためとはいえ、少なくとも教えが広がることを期待してたわけだから。

自分には離婚経験がある。その時のことを考えるとその遠因はずっと前からあったような気がする。
家を買えば、子供が生まれれば、育てていけば、会社を独立すれば、、、息が合ってくるそう信じていた。
しかし実際にはそうはならなかった。
自分の一方的な見方だけれども、今も自分なりに原因を考えているのかもしれない。
今考えられる遠因として、お互いが愛されたい欲求を強く持ちすぎていたこと、気を使うのにお互いが疲れてきたこと、があるのではないかと思っている。

どちらかの自己犠牲の上に成り立つ人間関係は、結局は長続きしない。どちらかが気を使っている状況でなく、楽しい時に、自分だけじゃなく、自分の相手も一緒に楽しんでいてほしい、辛いときは心を分かち合ってあげたいと思う。
気を使うこと自体は悪いことではないのだけれども、なんか重い。
片一方が楽しんでいるのにもう片方は我慢してた、そんな状況は、自分はもうこりごりで、一人だけ上機嫌なアヒルにはなりたくない。
相手が喜んでくれることに自分自身の喜びを見出すことができ、自分の喜びのために相手が喜ばす、辛い人がいれば気持ちをわかってあげて相手が少しでも元気になることが自分の喜び、そう考えた方が自分らしいし自分の好みなような気がする。
とどのつまり、愛することは自分の気持ちを満たすためであることを自覚すればいい。

自己満であることを自覚→自然に愛することができる→幸せな人

こんな単純な論理でいいのだろうかという気もするけど、うーんまっいいか。
今更このどうしようもない強すぎる自己愛を否定できないし、すぐ性格を変えられるほど器用でもない、自分の気持ちに矛盾なく人を愛せればいいじゃないだろうか。
つまりは、自分の幸せのために。おぃおぃ。究極のナルシストか。嫌われそ。

 
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